市立図書館で本を漁ってると『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』という本に出会いました。愛知淑徳大学教授の久保(川合) 南海子先生が書かれた本です。
本ブログでは本書をベースに進めていきますが、本書通りに進めていくと複雑長大になってしまう上、ただの焼き増しになってしまうので本書を通して感じたことと自身の感想や考察を練り合わせた泥団子にしてお伝えします。つまり、何の根拠もないただのお気持ち記事です。
推しの定義について
このブログは私の勝手なお気持ちですが、書籍に書かれた定義に納得もしたため書籍の定義を「推し」とさせていただきます。
ということで本記事の「推し」の定義を
対象をただ受け身的に愛好するだけでは飽き足らず、能動的になにか行動してしまう対象
p19
として進めます。
推しの濫用
推しの定義を本書のとおりにすると、推しというのは感情だけでは済まない能動的なものです。「あなたの推しはどっち!?」といった謳い文句で商品メニューを数種類と比較して宣伝しているのを見て違和感を感じたことがありました。
好みと違って推しは行動を伴うものなのに、推しレベルの感情を勝手に決め付けるな!といった意味で不満に感じたのだと言えそうです。
逆に言えば何らかの能動的な行動をするレベルに達している場合においては「推し」という言葉を先輩や後輩に対して使うのは不自然でないとも言えそうです。
My推し
私は推しという感情を長らく知らずに育ってきたのですが、2021年の10月にしぐれういというVTuberに出会って初めて「推したい」という感情が芽生えました。
これまで他者に好みの話をするのは避けがちだった私ですが、LTの自己紹介スライドに入れたり、推しがおすすめする作品を見たり、スライドを推しのカラーパレットにしたり、能動的な行動に発展していきました。
VTuberという世界を知ったのが「推し」という感情の芽生えにつながったとも言えて、アニメや好きな食べ物とは異なりVTuberはコンテンツが生産され続け、ライブでのコメントなど能動的な行動に繋がりやすく、後に触れる相互作用などの効果も高いと言えます。そういった意味でもVTuberなどは推す対象になりやすいとも言えそうです。
推しとはプロジェクション
プロジェクションという言葉は2015年に青山学院大学教育人間科学部教育学科教授の鈴木宏昭先生によって提案された概念です。
日本認知科学会第 33 回大会発表論文集にて鈴木宏昭先生によって掲載されている「プロジェクション科学の展望」を見てみましたがプロジェクションに関する定義は見当たらず、ここでは書籍から引用します。
プロジェクションとは、作り出した意味、表象を世界に投射し、物理世界と心理世界に重ね合わせる心の働きを指している
p34
プロジェクション・サイエンスは本書のタイトルにもなるほど重要な概念ですが、複雑かつ長くなるためここではふっとばして、「推しと関係する場所に聖地巡礼したい」「推しと同じ色にすると気分がいい」みたいな、推している人間が何らかの対象や虚に対して付加価値を自然に付ける(投射する)みたいな形だと解釈させてください。論文によっては投射=プロジェクションとしているものもありました。(詳細な説明は本や論文をご覧ください)
例えば推しのライブで持ち帰った銀テープはその人にとっては大切極まりない思い出の品ですが、知らない人にとってはゴミと感じてしまうものです。この場合、推している人は銀テープに対してプロジェクションを行っていると言えます。
推し活ではこのプロジェクションが大事な要素となります。
ぬい
本書では推しのぬいぐるみ(以下 ぬい)を色々なところに連れて写真を撮るぬい活についても触れられています。
ぬいを連れて一緒にお出かけしたり、ぬいの服を作ったりして楽しむぬい活ですが、ぬいぐるみにはプロジェクションの投射先としての役割があります。頭の中で持っている推しに対するイメージを映し出す場所ができるといった形です。
また、ぬい撮り(ぬいと一緒に食事や旅の写真を撮る行為)によって、推しへのイメージの投射だけでなく、現地の楽しさ、ひいてはぬいを動かす自分自身までが投射されていると本書では述べられています。
さらに実在しない他者であっても食の社会的促進(一緒に食事をするとより美味しく感じるなど)があると言われています。
これは実際に認知科学分野の論文で示されています。
ヒトが誰もいない状況で自己鏡像や自己の静止画から自己認知だけでなく,不特定の他者(誰か)の心的感覚を想起しうること,その心的感覚が自己の刺激に異投射されることによって,実際に他者が存在する状況に似た行動の変化をもたらすことが示されたといえる
中田龍三郎, 川合伸幸. 社会的な存在-他者-をプロジェクションする. 認知科学. 2019, 26巻, 1号, p93.
意図的でなくとも、自身の一部もぬいに対して「心的な他者」として投射されるようです。これによりひとりだけどひとりじゃない感覚になります。
さらに自己を投射した存在が外部にあることで自分を俯瞰的な視点で見ることができるとも述べられています。本書では例としてうつ病の療養でのぬいの活用事例が挙げられています。これは意図的でなくともぬいが影響を与えることを示す例です。
自己の投射先になっているのはぬいぐるみですが、投射を行っているのは自分です。ぬいぐるみが触媒のようになって、自分が自分を勝手に救っている状態が作られているようです。
ぬい活は知らない人から見ると謎の行為に見えますが、極めて意味のある行為だと言えそうです。
バックプロジェクション
成人式で晴れ着を着ることで、日常とは違うことを外向きにも内向きにも感じさせることができます。これと同様にコスプレにおいても見た目がキャラに似るだけでなく、コスプレをしている本人にとっても影響があるようで、これをバックプロジェクションとして取り上げています。(プロジェクションは対象に対する印象が変化するのに対して、バックプロジェクションは自身が変化する)
本書ではタトゥーシールの実験を例に触れられており、見えないところにタトゥーシールを貼るだけでも、強気になれたという心理状態の変化があったことを示しています。
仮想空間のアバターの見た目がユーザーに影響を与えるプロテウス効果も例に挙げられていたのですが、これはVRChatが良い例と言えそうです。
VRChatにおいて男性ユーザーの多くは女性アバターを用います。このことはてんていさんの『VRCのうた#6「美少女になってる」』という歌からも見て取れます。
この歌では「かわいいアバターは見るのが良いのであって自分がなるのはちょっと違うなぁ…」としつつ美少女になっちゃうVRChatterの心理が描かれています。
女性アバターになることで心理的な側面でも周囲の雰囲気に合わせるという側面があるように感じます。
またてれかすさんの『ポピ横の狂人』では「外見だって自由自在さ 君の目を見て話そう」と歌詞があります。普段は目を見て話せない人でもアバターを変えることで自分ではない自分になることで内面までも影響を及びし、目を見て話せるようになるという勝手解釈もできます。(もはや曲を宣伝したいだけすらある)
見た目変えるだけで内面まで変わっちゃう脳の判定はガバガバすぎる気がしますが、これをうまくハックしちゃえばかなり便利に使えそうです。
推し活も認知革命の延長線上
サピエンス全史ではヒトは他の生物と異なり架空の物語を語り共有できる認知革命により高度な文明を築いてきたと言われています。
本書ではこれもプロジェクションの一部として捉えることで、プロジェクションの共有がもたらす効果について言及されています。
例えばVTuberはバーチャルな存在ですが、人間のみが持つ架空の物語を共有できる能力により、推し活で人が集まり応援広告ができたり、集団でファンゲームが作られたりするといった解釈ができます。
「推し活」は人類の普遍的な感情を用いて動いていると言えそうです。
二次創作はアブダクション
本書では腐女子の二次創作を例にアブダクションについて触れています。
アブダクションとは、これまでにわかっている事柄だけでは説明のつかない問題について、ある仮説を立てて考えることで新たな結論を導きだす推論法
p71
アブダクションは子どもの言語習得においても重要であると、ゆる言語学ラジオ『認知心理学者が語る、言語を習得する鍵は「アブダクション」#191』などでも紹介されています。
アブダクションは今分かっていることからぶっ飛んだアイデアで結論を出すみたいな形で、本書では腐女子の妄想がアブダクションを行っていることを取り上げ、アンパンマンとバイキンマンには男性同士の恋愛関係があることを想像できると説明しています。
多くの推しには余白があります。公開されていないプロフィールや普段見えない姿に関しては知っている情報から想像するしかありません。この余白の解釈を楽しむのが二次創作や妄想です。
また重要なのは、多くの場合自己が介在しないことです。これにより二次創作は他のファンにとっても共通のアブダクションが錬成され、多くのファンに親しまれていきます。壁になりたいオタクの心理には利点があったと言えそうです。
二次創作の受け入れは対象の余白と創作者の不介在、ファンによる共通認識の3つによるものと言えそうです。
適度に相互作用もほしい
「壁になりたい」のような心理もある一方、ライブで演奏者と観客が行う掛け合い(コール・アンド・レスポンス)も存在します。
これについて本書ではニホンザルの観察研究を元に普遍的な感情であることを示しています。
一方で応援上映のように推しからのアクションが直接ない場合もあります。
これについて本書では「推し」を媒介としたファン同士の相互作用がその役割を代替しているとしています。ファン同士でわかちあう喜びです。
ヒトは世話をしたい
本書ではヒトが世話をしたいことについて認知発達心理学や認知科学の実験を元に紹介されていますが、この分野素人の私にはそれらの信頼度を計りかねるので、あえてふっとばします。
つまるところ
他人のためになにかをすることは大きな喜びとなるのが、人間の持っている性質だからです
p145
ということです。
推しに対して応援したり何かを作ったりといったリソースを投下する行為は自分のためになるということです。
おわり
私事
私が「推し」という感情を知ったのは結構最近で、それまで周囲が言う「xxが推しです」って感情を理解できませんでした。好きと違うの……?って。
本書を通して、推しは能動的に行動するレベルの対象であること、推し活が人類にとって普遍的な認知に寄り添っていること、推し活は自身にもメリットがあることを理解しました。つまり、ヒトは誰かを「推す」ことにより、勝手に救われるということでした。お得!って感じです。
結局勝手に救われているだけという結論で、まさに化物語の忍野がよく言う「ひとは一人で勝手に助かるだけ」のような感覚です。
そういう意味では現在のVTuber界隈はうまく人間の心理に入り込んでてすごいなと思いました。推しやすい丁度いい距離感で相互作用が日々あって……
VTuberはSNS並みの発明だと思っています。
本書を読んでブログ記事にしている理由は感情の言語化です。
私の中での最近のトレンドは言語化で、自身が持っている感情もできる限り言語化して制御できるようになりたいです。(この節だけ切り抜くと不器用なロボットの発言に見える)
本書について
今回参考とさせていただいた『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』では書籍の最後に参考にした論文や書籍が章ごとに記されています。
またこの書籍ではサピエンス全史から小林・益川理論に至るまで幅広く参照されており、さらに著者が推し活をされる方であったためご自身や周囲の体験談も含めて紹介されています。もちろん実例や他分野の事例を織り交ぜるのは理解の促進に繋がりますが、本書ではそれが少し過剰であったかのようにも正直感じました。ですが、プロジェクション・サイエンスと呼ばれるアプローチについての端緒を開くことができたという意味でも、初学者にとって大変ありがたい書籍であったことも事実です。
私は認知科学の分野に素人で掲載されている実験や論文の妥当性について論じることはできませんし、正しい解釈ができているとも断言できないため、ぜひお手元にとってお読みになってみてはいかがでしょうか。
ゆる言語学ラジオの雑談会#199でも本書に関わる内容の一部が紹介されています。